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拘泥の1

「ひい、ふう、みい、よう……」

 腰を落とし、杖で探るようにして、下駄を

はいた足を一段ずつゆっくりと下ろしながら

、クメは呟くように数えるのだが、いつもこ

こで止まってしまう。

 ふうと一息入れて、また初めに戻って、

 「ひい、ふう、みい、よう……」と階を下

りていく。

 隠居家からわずか十段下りた所が畑に通じ

る道で、そこを斜めに横切り、低い石の門か

ら下の家へと入っていく。

 午後の、まだ三時にもなっていないという

のに、日が少し傾いてくると、もうクメの頭

の中は風呂焚きのことでいっぱいになってし

まう。

 灰色の濃淡が格子模様になった単衣の着物

に、黒くて細長い前かけを垂らした九十一歳

のクメは、下の家の門を入ると左に折れ、母

屋の台所側と牛小屋の間の庭を真っ直ぐに進

み、庭が尽きた所で左手の牛小屋の横に回る

 枯れた小枝と茶褐色に枯れた杉の葉とが堆

く積んである焚き木置き場から、いくらかを

抜き取って左手に抱えると、右手で杖をつき

ながら引き返してくる。

 牛小屋と門との間に小さな小屋があって、

便所と風呂場と大かまどとが棟割になってい

た。

 クメはその風呂場の前に立ち止まる。

 風呂場の木の戸に慎重に杖を立てかけ、少

し腰を屈めると、赤煉瓦が黒く煤けた風呂の

焚き口の脇に、抱えてきた小枝と杉の葉の焚

きつけをバサリと落とす。そして、黒い細長

い前かけをパタパタと払いながらゆっくりと

上体を起こすと後ろ返って、今度は杖はつか

ずに、母屋の玄関前を通り長い縁側の端まで

いく。

 ガラス戸を締め切ったままの縁側の下には

、薪が、太いのを下にして徐々に細いのをと

隙間なくぎっしりと積み込んである。

 その中からできるだけ軽そうなのをクメは

選んで、五六本、まるで赤子に乳を飲ませる

ような抱き方で抱え込み、萎んだ口先を尖ら

せて喘息気味の喉をヒューヒュー鳴らしなが

らよろよろと運んでいく。

 そしてそれをドサッと焚きつけの手前に投

げ出すと、次は台所へと体を運んでいった。

 マッチを取るためである。

 牛小屋では、雌雄二頭の黒い牛が、餌入れ

用の木舟の上に眠そうな顔を突き出し、涎で

ぬるぬる光った口をもぐもぐさせて反芻して

いる。

 木舟の縁には、数羽の鶏がくっついてこち

ら向きに止まっていて、一様に首を傾げ、片

方の目だけをきょときょとさせてクメの姿を

追っている。

 クメが台所の重い木の戸をガタッガターッ

と音をさせて引くと、鶏たちはいっせいにバ

タバタッと木舟から飛び降りてクメの足元に

駆け寄ってくる。それを「しっしっ」と両手

で水をすくってかけるようにして追い払うと

、クメは台所の中へと姿を消した。

 台所は半分が土間になっていた。

 土間には入ってすぐ左手に、牛の飯炊き用

の大きな鍋を据えたかまどがあり、かつては

人間用の煮炊きもした小さめのかまどが二つ

、今はめったに使われることなく煤けた口を

空けている。そんな西向きのかまどの上には

木の窓があって、ずらすと飛び飛びに開いて

縦長に外光が入るようになっているが、北側

にはガラスのはまった明るい窓がとってあっ

て、その下には、真新しいステンレスの流し

とガス台が置かれてある。

 ステンレスの流しと畳敷の居間との間は、

新建材のいわゆるフローリングの床になって

いて、茶色のテーブルに緑色の椅子四脚とい

うダイニングテーブルセットが舞台セットの

ように置いてあった。

 クメは、ステンレスのガス台の隅に乗って

いる大箱のマッチを取ろうとして背伸びしな

がら、ふと、人の気配を感じたのか、

 「あれ、誰かおっとかいね」と一人言のよ

うにつぶやいた。

 不思議そうな顔をして、クメはフローリン

グの板の間には上がらないで土間続きに回り

込むと、居間の障子をそっと開けてみた。

 薄暗い居間の、堀ごたつに板をかぶせて置

いてあるこたつテーブルの向こう側に、誰か

が寝転んでいるのが見える。

 「誰様な」

 クメがそう声をかけると、薄暗い中でクメ

の方に足を向けて横向きに寝ていた影が、の

っそりと起き上がった。

 「誰かね」

 白い長袖ブラウスに紺の短いスカートをは

いて、クメが開けたままになっている台所口

からの西日の光線に、若い女の子がまぶしそ

うに目を細めている。

 疲れて眠そうな顔をして、ただ、口もとに

は白い歯を覗かせてちょっぴりだが笑ってい

る。

 「有子じゃなかか」

 「ああ、おばっちゃん。私よ、有子よ」

 有子は投げ出していた細い足を横座りにひ

っこめながら、けだるそうな声を出して言っ

た。

 「まあ、有子か。いつ帰ってきたと」

 顔だけ覗かせていた障子を、クメはズズッ

と押し開けると、目をまん丸くして孫娘の顔

をよおく見た。

 「やっぱい有子じゃいね。いつ帰ってきた

と」

 しかし有子は、それには答えようとはせず

にけだるそうに立ち上がると、障子を開けて

フローリングの台所へと行ってしまった。

 クメは有子を目で追い、有子が流しで水道

の蛇口をひねって水音をたてると、急いで台

所へと回った。

 有子は息もつがずにコップの水を飲んでい

た。

 「いけんしたと、有子」

 すぐには答えず、彼女は口の端を指先で拭

い、ゆすいだコップを前の棚のコップ立てに

そっと伏せて置き、そしてようやく照れ臭そ

うに祖母を振り返って見た。

 「ねえ、おばっちゃん、何か食べるものは

ないかしらね。昨日から何にも食べていない

のよ」

 明るい声でそう言うと、有子はクメの返事

は待たずに、何か食べるものを探し始めた。

 テーブルの上の布巾を取り、ガス炊飯器の

お釜とアルミ鍋の中を覗く。

 朝食の残りであろう、冷たくなった白いご

飯が二杯分位残っている。

 鍋にはワカメの味噌汁がほんの少しだけ。

 流しの横の冷蔵庫を開けると、野菜くらい

しか見当たらない。

 冷蔵庫の上に乗っている網を張ったはい帳

を開けると、小鉢に入った大根の味噌漬があ

った。

 「まあ、何にもないのはしょうがないか。

これでお茶漬でも食べよう」

 クメが土間に突っ立ったまま、ポカンと口

を開けて自分の姿を見上げているのを知りな

がら、有子は、大きな声で一人言のようにそ

う言うと、やかんに水を入れ、大箱マッチを

すってガスコンロに火を点けた。

 ご飯をよそい、多分クメが昼ごはんを食べ

たときのままなのだろう、すっかり出し切っ

てふやけた茶の葉が入ったままの急須を居間

から持ってきてそのまま、お湯がわくのをじ

っと待って注ぎ入れ、冷たいご飯にかけた。

 椅子に座り、有子は、味噌漬大根をひとか

じりしてお茶漬を食べ始めた。

 有子が椅子に座ったとき、クメもつられた

ように板の間にちょこんとお尻をかけ、仰ぐ

ようにして有子の横顔を見続けている。

 おいしそうな音をコリコリとたてて味噌漬

をかじってはお茶漬けを喉に流し込んでいる

孫娘の目から、突然、ぽろぽろと涙が落ち出

したのを見てクメはびっくりした。

 まるで数珠つなぎに、ぽろぽろ、ぽろぽろ

と涙が孫娘の頬を転げ落ちる。

 「いけんしたと、有子」

 クメは繰り返しきいた。

 だが、有子は、そんなクメの言葉も耳に入

らないのか、お茶漬けを流し込み、涙を零し

続けてそれを拭こうともせずに、鼻水をすす

り上げ、そしてまた茶碗にご飯を盛る。

 孫娘の有子は東京の大学にいっているはず

である。

 帰ってくると聞いた覚えもなかった。

 クメはあんぐりと口を開けたまま、ただた

だびっくりして目を見張っているばかり。

 お茶漬を二杯たいらげた有子は、流しで茶

碗と箸と小鉢とを洗い、空っぽになったお釜

に水を張った。

 「少し眠るわ」

 そう言い残して、有子は居間から中座敷を

通って奥の間へと姿を消してしまった。

 毛布でも出しているのだろうか、押し入れ

を開け閉めしている音がしてそれっきり、物

音はしなくなった。

 辺りが急にしーんと静まり返り、台所の戸

口の外で、鶏たちが餌を欲しがって鳴いてい

るクックッという音がした。

 「あれっ、あたいは何をしょうとしちょっ

たかいね」

 クメはちょっと考え込んだような目付きを

すると、ああそうだと思い出したかのように

腰を上げた。

 再び背伸びしてガス台の隅っこからマッチ

の大箱を掴み、戸口に群れている鶏たちを 

「しっしっ」と手で追い払って、重い戸をガ

タンと閉め切ってから風呂場の焚き口へと向

かった。

 杉の枯れ葉にマッチを擦って火をつけ、そ

れがベラベラと燃え出すと奥の方にそっと差

し入れる。枯れた小枝をその上に置いていき

、火の勢いが強くなったのを見計らって、薪

を互い違いに重ねていく。

 先ほどの孫娘のことなど、もう忘れてしま

ったかのようにクメが呟いた。

 「早よせんと、サワたちが帰って来いから

なあ」

 風呂の火は薪に燃え移ってよく燃えている

 ひと仕事終えて満足そうに、クメは「よっ

こらしょ」と立ち上がった。

 秋の日はようやく、一段高い所にある隠居

家の、その裏山の杉木立ちの陰に隠れようと

していた。

 日が暮れる前に、クメは、今は昼間いるだ

けとなった隠居家の戸締まりをしなければな

らない。

 「どれどれ急がんと」と、彼女は風呂場の

戸口に立てかけてあった杖を取った。

 

 ダッダッダッと、ずっしりと重い音を轟か

せて、一台の耕運機が石の門を入ってきた。

 ライトを照らして牛小屋の中に突っ込むよ

うにして停まった耕運機の運転台からは、こ

の家の主である義三が飛び降りた。その義三

に、一匹の犬が嬉しそうに尻尾を振って飛び

かかる。白に黒の耳の尖った小型犬で、名前

もブチ、畑に連れていってもらえた時の喜び

は帰ってきても衰えを知らない。

 「こらやめんか、ブチ」

 義三はブチの首輪を掴んで、牛小屋の外れ

に置いてあるリンゴ箱の寝場所まで引っ張っ

ていって、鎖につなぐ。

 クウーンクウーンと甘えた声を出して後追

いしたいブチの頭を軽く撫でて、義三は耕運

機に戻った。

 耕運機の荷台からは、弁当箱の風呂敷包み

を下げた妻のサワが降りてきて、すぐに台所

へと入っていった。

 サワが降りた耕運機の荷台から、義三は、

青枯れてカサカサ音をたてるさつまいもの葉

づるの山を一山、丸めるようにして引き下ろ

してカッターの前に置く。

 すると、そのさつまいもの葉づるを待って

いたかのように、二頭の牛が交互に、モウー

ッという間延びした鳴き声を上げた。そして

、カッターに近いほうの雌牛が、木舟の横か

ら口を突き出し、長い舌を伸ばして葉っぱを

食べようとする。

 そんなことにはお構いなしに、義三はカッ

ターのスイッチを入れた。

 青枯れた葉づるをカッターに噛ませると、

回転する鋭い歯がそれをガッと引き込んで小

刻みに刻み、直方体の大きな飼い葉桶の中に

草いきれの匂いを放射しながら勢いよく緑の

小山を築いていく。

 さつまいもの葉づるを片付けた義三は、カ

ッターのスイッチは切らずに、牛小屋の二階

へと梯子段を上がっていったかと思うと、二

階に積んである古藁の俵程の束を二把両手に

下げて現れ、床板を張っていない箇所からち

ょうどカーターの手前に落ちるようにトスン

トスンと無造作に下ろした。

 古い藁束からは埃が舞い上がる。

 灰色の上下の作業服を着ている義三は、服

に付いた藁くずを手ではたき落としながら梯

子段を下りてくると、埃に顔をしかめながら

藁束の束ねてある藁ひもを器用にほどいて、

ばらばらになった小束の藁を次々とカッター

に噛ませていく。

 飼い葉桶の中に、白っぽい藁の刻みがさつ

まいもの緑を隠すくらいの山ができたところ

でカッターのスイッチが切られた。

 飼い葉桶の中に上体を曲げ入れた義三が、

刻まれた葉づると藁とを両手ですくいおこす

ようにして混ぜ合わせる。

 混ぜ終わると、竹のすくい籠にそれを山盛

りのせて出てきて、牛の木舟に入れてやる。

 牛が餌を食べている間に、彼は牛の後ろへ

と回る。

 長い木の柄の付いたフォークで、牛の糞を

、敷いてある切り藁ごとかき寄せて、小屋の

隅に積んである黒々とした古い堆肥と混ぜる

のである。

 地下足袋を履いている片足に思い切り力を

入れてフォークを突っ立てて古い堆肥を掘り

おこすと、牛糞と草と藁とがうまく合わさっ

て腐った生温かい臭いが湯気のように義三の

全身を包む。

 古い堆肥を掘りおこしては新しい糞を混ぜ

、フォークを叩きつけてはふるい、ふるって

は叩きつけて、何度も何度も丁寧に混ぜ合わ

せて堆肥を積んでいく。

 それが終わると、カッターと反対側に据え

てある昔ながらの大きな藁切り包丁で、残し

てあったもう一把の藁束をばらして小束をザ

クザクと荒く刻んでいき、それを飼い葉桶の

中に置いたすくい籠にためると、二頭の牛の

足元に万編なく敷いてやるのだった。

 そして竹箒を持ってきて牛小屋の前をきれ

いに掃き清めてやっと、義三の一日の作業が

終了する。

 一方、台所に入っていった妻のサワは、板

の間に弁当箱の風呂敷包みを置くとすぐ庭に

出てきて、縁側の下から大きな薪を三本程抱

えて風呂の焚き口に向かった。

 クメが一度しか薪をくべていない風呂の水

は、ぬるい日向水くらいでしかないからであ

る。

 残り火を漁って、散らかっている杉の葉を

かき集めてくべ、ふうふう吹いて火をおこし

て薪を乗せる。

 「あら、あたいがするが」

 耕運機の音で上の隠居家から下りてきたク

メが言った。

 「そんなら、火が消えんように見ててくい

やんせな」

 勢いよく燃え出した火を確認してから、サ

ワが、母親のクメにやさしくそう言い置いて

台所へと急いだ。

 夕飯の準備の前に、サワは、牛の餌を炊か

なければならないのだ。

 かまどの大鍋の蓋を取って、大きなしゃも

じで中をかき混ぜる。

 鍋の中には、農協から買ってきた大豆入り

の牛の飼料と、細かく刻んださつまいもとが

混ぜて煮てある。それをぐつぐついうまでい

ったん火を通してから冷まして、牛に食べさ

せるのである。

 かまどに火を焚きつけたサワは、地下足袋

を脱いではだしになると、鼻緒が赤いゴムの

下駄を下げて風呂場に行き、顔と手足を簡単

に洗って台所に引き返してくる。

 さて今夜のおかずは何にしようかね。

 そう呟きながら白い割烹着を着けると、板

の間に上がって蛍光灯のひもを引っ張った。

 あれっ、テーブルの上にお釜がない。

 空っぽになって流しに置いてある。

 おかしいなあと、サワは味噌汁の鍋の蓋を

取った。

 味噌汁は少し残っている。

 母は昼飯に、釜の中の残りご飯を全部食べ

たのだろうか。確か四五杯分は残っていたは

ず。自分たちの弁当をつめて、残りはブチの

晩ご飯まで足りると思っていたのに。

 母にもいよいよボケが始まったのだろうか

 そんな。ブチの分まで全部ご飯を平らげて

いるなんて、そんなことが夫の義三に知れた

ら何を言われるか分からない。それでなくて

も自分の母親の面倒を夫に気兼ねしいしいみ

ているのにと、サワは、黙って流しの釜を洗

って急いで米をといでガスにかけた。

 そうしてから土間に下りて、台所口から義

三に声をかけた。

 義三が牛の後ろに回って堆肥作りをやって

いる時だった。

 「お父ちゃん、そこが終わったらバイクで

買い出しに行ってくれんな」

 すぐに義三の返事が返ってきた。

 「何を買うて来っとよ」

 「魚と肉と、どっちがよかな」

 「サシミでも食べたかね」

 夫の声は機嫌がよさそうだった。

 ここからはスーパーのある村の中心まで、

川沿いの暗い道をバイクで二十分もかかる。

 だいたいは義三が買い出しは引き受けてく

れるが、機嫌の悪そうなときには仕方なしに

、サワが出かけていく。しかしこの時期はサ

ツマイモの収穫で毎日忙しく、五十歳前で更

年期にもさしかかった彼女には、バイクに乗

って暗がりの中を出かけていくのはちょっと

辛い。

 機嫌よく義三が買い出しを引き受けてくれ

てほっとした彼女は、お父ちゃんの牛小屋作

業が終わるのはもうちょっとかかりそうだと

、餌を欲しがって右往左往している鶏たちを

呼び集めにかかった。

 「とーい、といといとい、とーい」

 鳥を「とーい」と呼んで蔵の方に歩いてい

くサワの方に、十羽を数える鶏たちがすっと

んで行く。

 母屋の前庭から真っ直ぐ、金網で囲った菜

園と花壇の間を通って行くと蔵にぶつかる。

 木造の黒ずんだ二階建ての蔵の中に入って

いって両手に籾をすくって出てきたサワは、

蔵の手前、菜園の外れにある鳥小屋へと鶏た

ちを引き連れて入って小屋の中に籾を撒いて

やる。

 薄暗がりの中で、お腹をすかせた鶏たちが

当てずっぽうに忙しなく餌を啄むのを見なが

ら、サワは、ひときわ大きくて気性の荒い一

匹の黒茶色のオンドリに率いられている白や

赤茶色のメンドリ達の数を数えるのだった。

 サワが鳥小屋から戻ってきても、クメは風

呂場の前に屈み込んだまま、所在なげに小枝

の先で薪をつついていた。

 クメが上の隠居家で寝起きしなくなっても

う何年経ったのだろうか。

 娘婿である義三に気を使い、彼より先に家

には上がらないようにしているのである。

 いくらそんな気がねなんかしなくてもいい

とサワが言い聞かせても、クメは、義三さん

には世話になって申しわけないと、年老いた

体を一層縮めて遠慮がちにしている。

 「おばっちゃん、風呂はもうよかで、座敷

にあがいやんせ」

 サワはそう声をかけてやった。

 「そうしもそかいな」

 よっこらしょっと、クメはゆっくりと腰を

上げた。

 秋の日はすっかり陰って、赤々と燃えてい

る風呂場の火の明かりを引きずるようにして

クメの姿は家の中へと消えていった。

 

 風呂場で手を洗った義三が家の中に入って

いくと、居間のコタツテーブルの横にちょこ

んと座っているクメが、

 「ごくろさあな」と丁寧に頭を下げた。

 いつものことだというように義三は見向き

もせずに中座敷に入っていき、丸い蛍光灯の

明りを点けて、左奥の納戸にかけてあるジャ

ンバーをとりに行こうとして、仏壇のある奥

座敷への障子がきっちりと閉まっているのに

ふっと気がついた。

 あれえー。いつもあけてあっとに、おかし

いなあ。

 障子は、下半分が黒光りした艶のある板の

、昔ながらの腰高の障子戸である。

 義三は障子戸を、音を立てないようにそっ

と開けてみた。

 すると誰かが、毛布をかぶって向こう向き

に寝ている。

 誰かよ。有子か? まさか。じゃっどん、

あの長い髪の毛はやっぱり有子か?

 よおーく目を凝らして、義三は、間違いな

く有子だと慌ててサワを呼びにいった。

 「おい、サワ、有子が奥に寝ちょっど」

 サワは台所で白菜を刻んでいた。

 ガスコンロの上では、煮干しで出しをとっ

ている鍋が盛んに泡だっている。

 「有子が? どこにな。うそを言いやんな

 「うそなもんか。来てみい。奥に寝っちょ

っいが」

 じれったそうに、義三が低めた声の調子を

荒げた。

 「まさか」

 信じられないという顔つきで、サワは、白

い割烹着の前で手を拭きながら夫の後につい

ていった。

 そんな二人の様子を、何が起こったのかと

ききたそうに、クメが目で追っている。

 有子は起き上がって、伸ばした足の上で毛

布を畳もうとしていた。

 「まあ、ほんとに有子ね。びっくりしたが

。いつ帰って来たとね」

 「うん、三時頃かな」

 ようやく娘の有子は、まぶしそうに両親の

顔に顔を向けた。

 「いけんしたとね」

 「うん」

 言いよどんで、両手の指先で長い髪を神経

質そうにかきあげる。

 「夏休みも帰らなかったし、ここんとこ卒

論の勉強でちょっとくたびれて、おばっちゃ

んの顔を見にね」

 小さな声でそう答えてきまり悪そうに笑っ

た。

 「ノイローゼか」

 あっはっはっと、父親が声を立てて笑い飛

ばそうとした。

 娘もそれに乗って、

 「まあ、そういうこと」と、勢いよく立ち

上がって畳み終えた毛布を胸に抱えた。

 「あんた、東京で何かあったとじゃなかね

 サワはそんな娘からじっと目を離さずに尋

ねた。

 「何にもないわよ。ちょっと疲れただけよ

 さりげなさそうに有子は答えたが、母親の

顔を見ようとはしない。

 「ノイローゼだ、ノイローゼ」

 はっはっはっと、義三はまるでサワに当て

付けるかのように、一段と小気味よい笑い声

を立てた。

 むっとした表情で、サワは口を噤んだ。

 

 バイクで買い物に出かけた義三は、アジと

サバそれにイカまでも買ってきた。

 それをサワが器用にさばいてどっさりと大

皿に盛り、庭の菜園から引き抜いてきたばか

りの大根の千切りもこんもりと深皿に盛られ

て、居間のコタツテーブルの上に出された。

 「まあ、大ごちそうじゃね」

 クメが嬉しそうに赤ブドウ酒の瓶を引き寄

せて、さっそくつごうとした。

 「もうちょっと待たんな」

 義三にそう言われて瓶に手をかけたまま、

クメは誰を待つのか分からないというような

不思議そうな顔つきをした。

 しかし風呂から上がった有子が、白地の浴

衣に明るいピンク色の羽織をはおって現れる

と、

 「ああ、じゃったね。有子が帰ってきちょ

ったね」と顔をほころばした。

 二本の長い蛍光灯だけの十畳の居間が急に

華やいで、浴衣の胸をはだけた義三が勢いよ

くビールの栓を抜く。

 そのビール瓶を娘が受取り、まずは父親に

それから母親へとコップに注いでやっている

と、祖母のクメまでが遠慮がちではあるが自

分の小さなグラスを差し出した。

 毎晩赤ブドウ酒をそれで二杯だけ飲む、盃

よりちょっと大きい目のグラスである。

 「ちょっとだけ入れてくいやんせ」

 そう言われて有子が、ほんの少しだけビー

ルを注いでやると、

 「ありがともさもさ」と、気分のいいとき

に使う意味のない言葉をくっつけて頭を下げ

、クメはこわごわと口にビールを持っていく

と、すするようにして飲んで顔をくしゃくし

ゃにしかめた。

 「苦かな。こりゃ何ちゅう酒な」

 義三が苦々しい顔つきですぐ言った。

 「いつも同じことばっかり言いやんな。ビ

ールじゃっち、いつも教えちょっとに」

 ああ、また始まったとばかりに、

 「さあ、かんぱい!」

 と、サワがコップを高々と差し上げた。

 義三はもちろん、サワも有子もおいしそう

にごくごくとビールを飲んだ。

 それをおかしそうに眺めてから、クメは、

自分のグラスに甘いブドウ酒をなみなみと注

いだ。

 サワがサバの刺身と大根とを小皿に取り、

ショウユをかけてクメの前に置いてやる。 

 「ありがともさもさ」

 クメは自分の娘にも頭を下げてから、もそ

もそと食べ始めるのだった。

 たった一杯のブドウ酒で、祖母の顔はすで

に真っ赤になっている。

 それを真向かいから眺めながら、有子は、

嬉しさがしみじみとこみ上げてくるのを感じ

ていた。

 中学校を卒業するまでずっと、物心がつい

た時から、上の隠居家でクメと寝起きしてい

た有子だった。

 切れ長の目に高い鼻、品のいい口もと。

 全く読み書きのできないクメの自慢は器量

よし。

 「器量よしだったから農業技手のおじいさ

んがあたいに付け文しやったと。祭りの時に

袖の袂にね」と、何度聞かされたことか。

 なのに読み書きのできないクメのことを二

言目にはバカだバカだと言っていたという次

助じいさんとの間には、二男八女の十人もの

子どもが生まれ、貧乏で苦労させられたらし

い。

 しかし、おじいさんが死んでから二十年程

も経って今は九十一歳になるクメだが、月に

一度はサワに髪を黒々と染めてもらって、そ

れを後ろでひっつめに束ね、総入れ歯の口も

とも上品にすぼまっていて、とてもかわいい

『おばっちゃん』である。

 有子は、コップいっぱいのビールで体中が

ふわふわと、とても幸せな気分になってきた

。 おばっちゃんが元気でいてくれてよかっ

たと。

 そんな有子に、刺身を食べろ食べろと、義

三がうるさいくらいに勧める。

 「ほら、サバのサシミなんか、あっちでは

食べられんどが。新しくておいしかど。おま

えが好きなイカも、どんどん食べんか」

 するとサワが、にこりともしないで言った

 「疲れているとサバはあたるかも知れんか

ら、こっちの、酢でちょっとしめた方がよか

かもしれんよ」と。

 「大丈夫よ」

 そう答えはしたものの、二人の勧めにあま

り応えられそうにないと、有子は白状した。

 「帰ってきてお茶漬けを二杯も食べたもん

だから、お腹がいっぱいで。あんまり食べら

れそうにもないわ」

 味噌漬大根をかじって出がらしのお茶で生

ぬるいお茶漬を二杯も食べた自分が、今更の

ように恥ずかしく思い出されて、彼女は俯い

てしまった。

 それに、自分の『東京ことば』が、両親に

は他人行儀に聞こえるだろうと分かっていて

も、どうしてか滑らかに田舎ことばへと切り

替えられないもどかしさもあった。

 「あんたが食べたとね」

 たまげたという顔をしてわざわざ上体を離

して傍らの娘をまじまじと見つめたサワだっ

たが、顔は笑ってもいないし、前歯が一本欠

けたままにもなっていた。

 母はますます老け込んできている。

 有子は目を逸らしながら、事故か自殺か未

だにはっきりしない修治の死から五年経った

が、どうしていいか分からない不安に脅かさ

れてやせ細ってしまった姿を、母の前にさら

けだしてしまったことを後悔し始めていた。

 でも私は、ここに帰ってくる以外に帰ると

ころはなかったのだと、こみ上げてくるもの

を必死になって飲み込んでいる有子に、義三

がやさしい言葉をかけてきた。

 「何時に帰って来たとか。三時か。もうず

っと前やがね。もりもり食べて、太らんと。

若い者がそげんガリガリにやせて、若いとき

は、ピチピチとはじけそうなくらいでなきゃ

いかんど、有子」

 はだけた父親の胸は筋肉質だが、まるでラ

ンニングシャツの下着を着ているかのように

首から下は日に焼けないで生白い。酒はから

っきし駄目で、コップ一杯のビールで、もう

その白い肌が真っ赤に染まってきていた。

 彼は、高校を卒業して東京の大学に入って

からみるみるやせてしまった娘のことを本気

になって心配していた。

 義三自身が若い頃、結核の要注意で兵隊か

ら帰されてきた苦い経験があったし、有子も

大学の一年の時に健康診断で胸に影があると

言われて帰ってきて、夏休みの期間中家で安

静にしていたことがあった。

 今は全く心配はないと有子は言うのだが、

義三には、痩せた娘の体が気が気でならなか

った。

 とにかく有子は、義三には自慢の娘なので

ある。

 五人の子どもの中で有子が一番頭がよくて

、東京の国立大学に受かったときは、合格の

幟を立てて村中を自転車で走って回るとまで

言ってサワに止められたのだった。

 二番目の息子の修治を亡くして暗く沈んで

いた尾崎家にとって、有子は、輝ける星でな

くてはいけないのである。

 「有子、いっぱい食べて、元気はつらつと

せんか」

 そんな父親の励ましを受けて、有子は単純

に嬉しくなって顔を上げ、もう一杯ちょうだ

いとビールを所望し、それを一気に飲み干し

た。

 「ほんとにおいしそうね。どれから食べよ

うかな」

 脂ののった秋サバの刺身は、舌にころりと

おいしかった。新鮮な大根は歯にサクサクと

、噛むと甘みが口いっぱいに広がる。白菜の

味噌汁も、真っ白な新米の炊きたても食欲を

促すかのように湯気を立てている。

 「ああ、おいしかね」

 やっと田舎に帰ってきた実感が湧いてきた

というように、有子は次々と箸をつけていっ

た。

 それにつられたかのように、赤ブドウ酒は

毎晩グラスで二杯と決められているクメが、

今日の分は飲み終わったのにもう一杯つごう

として、義三に見つかってしまった。

 「もういかんど、おばっちゃん。また寝て

からワアーワアー叫ぶから、もうやめんな」

 怒られたクメは、ブドウ酒の蓋に手をかけ

たまま、有子の方を恨めしそうに見る。

 「いいじゃない、もう一杯くらい。ほら、

おばっちゃん、飲まんね」

 義三の機嫌を横目で伺いながら、有子が笑

って言った。

 渡りに船とばかりに、クメは急いで蓋を回

して、グラスになみなみと注いだものだから

、赤紫色の液体がグラスからあふれてテーブ

ルの上に零れて流れた。

 「ああ、惜しか」

 それにクメは顔を近づけて、ズズッと音を

立てて吸いにかかったから義三が黙ってはい

なかった。

 髪が後退して広くなった額に青筋を立てて

一喝した。

 「きたなかことをしやんな」

 そんな吐き捨てるような叱り声に、ご飯を

食べ始めていたサワは表情ひとつ変えなかっ

た。

 さっと立ち上がった有子が、急いで台所か

ら台ふきんを取ってきて義三とクメの間に入

った。

 「汚いことをしちゃだめよ」

 まるで子どもに言い聞かせるようにして零

した所をきれいに拭きとってやったが、クメ

は、何も悪いことはしていないという目付き

で、しわくちゃの口を少し尖らせた。

 祖母は幼い子どものようになってしまって

いるのだ。お父さんだって、あんな怒り方を

しなくたっていいのに。

 息子の修治を亡くしてサワが笑わなくなり

、子どもたちは末娘の恵子を最後にいなくな

ってしまい、クメがこの家で食事して寝泊ま

りするようになって義三の鬱憤はすべて彼女

に向けられているようにさえ思えた。

 黒光りしている柱と煤けた天井から急に陰

りが生じて部屋の暗さが増したような気がし

たら、土間からはコオロギの鳴く声が唐突に

響いてきた。

 「有子、もう一本ビールを出してこんね」

 気まずい沈黙を突き破るようにして、サワ

がそう言った。

 有子は父の肩に手をかけて、甘えた声を出

した。

 「そうしよう、お父さん。もう一本飲もう

よ、ねっ? いいでしょ?」

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