どこかやさしそうな顔をして
しかし、それは、ギターの爪弾きをバックに、手紙とか、夏の終わりとか、寂しい秋とか、ありふれた言葉で男女の恋を歌っているだけの、いわゆる歌謡曲でしかないように思えた。
音大を出た母親がこんな歌を聞いていたなんてと、がっかりしてテープを止めようとしたら、急に歌声が変わってびっくりした。
もう、俺はこんな恋なんか捨ててしまうって、急に別の男が現れたのだ。
俺は悠久の時を流れるために空を漂いたいと、ギターを掻き鳴らし声を張り上げる。
俺を連れていくのは孤独という名の自己愛だけで、俺は誰にも見えないらしいし、俺の見える空はどこにもないらしいと。
俺には空がない、俺の空はないと、悲痛なまでに叫んでいたのが突然、ぷつんと切れて、もの悲しい囁きで、空がない空がないと、消えていく。
その余韻で何となく、ナオミも口ずさんでいた
空がない、空がないと。
そして、何度もテープを巻き戻しては一緒に口ずさんでいるうちに、何だか懐かしい思いを呼び起こされそうにもなったのだ。
いったい何なのよと、ナオミは疲れ切って、ヘッドホーンを投げ出していた。
もう、時刻は明け方近くになっていた。
しかし、父と女が帰ってきた気配は全くなかった。
ナオミはベッドから下りていって、サッシ戸を引いた。
いつの間に降りだしたのだろうか。
夜明け前の薄い光に煙るような小雨が、鉄柵をすり抜けてきた生温い風に乗ってナオミの素足を湿らせる。
時折車が猛スピードで駆け抜けていき、その音にくるまるようにして彼女は、両腕で自分の胸を力いっぱいに抱きしめていた。
私なんかいなくなればいいのだ。
ナオミは目を閉じてその場に蹲った。
このまま冷たくなって死んでしまいたい。そしたらあの鳩が、私を天空に導いてくれるかもしれない。
私も空を漂いたい。
白い鳩と一緒に空を漂いたい。
悠久の時を超えて鳩と一緒に、私も空を漂いたい。私の空を。
「ねえ、ママ」彼女は呟いていた。
「あなたはどうして死んだの。どうして私の目の前で死んでいたの。私に何を伝えたかったの。どうしてこのテープだけが残っているの。どうしてなのか教えてよ」と、ナオミはどのくらいの間、小雨のベランダに蹲っていたのだろうか。
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